相続税の重圧 焦る大地主が標的に10

手付金の3000万円は後でバッグに詰めることにした。秀雄は、

「手付金の授受も無事に済みました。ここで、私と、藤田商事様の社長の二人で、司法書士の先生の前で署名と押印することになりますので、専務と井田様はしばらくここでご歓談されて、20分ほどお待ちいただけるでしょうか。」昭子は、なんだそれ、全然聞いていないよ。でも3000万円はいただいたんだし、秀雄に任せとけばいいなと思った。

「秀ちゃん、署名は私がしなくていいのかね。」念のため昭子は、秀雄に尋ねてみた。

「はい、ここでしばらくお待ちいただくだけで結構です。実印はおしまいください。」昭子は、実印も元に戻ったし、お金も自分の前にあり、あとはバッグに詰めて持ち帰るだけだ、と安どしていた。買い手の専務とは、世間話やら、高く売りに出してなかなか売れなくて困っていた、本当にありがたいということも話した。専務は、井田家の由来を教えてほしいと昭子に求めた。昭子は、普段からあまり世間にそういうようなことは話さないようにしてきていた。どこの資産家もそうであるように、本当の資産家は、普段はあまり、自慢めいた話はしないものだ。井田家もご多分に漏れず、以前からそうしてきた。しかし、今は、手持無沙汰で、間を持たすためにもその話をせざるを得なかった。10分ほどで説明できるように、一瞬にして、頭の中でストーリを組み立ててみた。ほとんどは、姑と亡き夫から聞いて覚えている程度であったが、自分でも娘たちに聞かせる程度だったので、どのくらいかかるか見当をつけたかった。というのも、あと10分ほどで秀雄たちが戻ってくるだろうから、すぐにこの場を暇したかったからだ。早く娘たちに現金を見せたかったのだ。昭子は組み立てたとおりに話し出した。

応永23年西暦1416年、一帯は、小田原城を築造した大森氏が支配することになり、そのころに井田家は名主の地位を与えられた。永正9年西暦1512年まで大森氏は続いた。そのころ、小田原城は北条早雲に乗っ取られ、大森一族は、秦野、平塚へ落ち延びてきて、土着した。井田家菩提寺の過去帳でさかのぼると、現在16代前までは氏素性がはっきりしている。寺の高齢の住職の話では、今でも檀家総代を務めている井田家のことをよく覚えていて、寺の過去帳は16代前からしか記載されていないが、もっと前から名主であったらしいと、時たま聞かされるほど井田家には歴史があった。戦前、井田家は一帯でも一番の地主であったらしい、今は土地をたくさんの人に貸していて、耕作地は自分たち一族が食べるだけを耕作している。代々女系家族で、婿を取って、現在までつないできている、という話を、小さい声で昭子は話した。そうこうしているうちに、秀雄と買い手の社長が戻ってきた。秀雄は手に公正証書と書かれている封筒を持っていた。

「井田様、お待たせいたしました。こちらが本日契約した公正証書となっています。これは謄本となっていて、本書はこちらの公証人役場の金庫に保管されています。ですから、いつでも、有料ですが、閲覧いただけるので、これを紛失しても大丈夫です。とりあえず、お渡ししますので、大事に保管しておいてください。」昭子は、公正証書の締結は初めてだったので、なんだかよくわからなかった。なにも秀雄に聞かされていなかった。しかし、昭子は又思った。お金が手元にあり、これは手付金だから、残金は来年1月に手に入ることだし、権利書はまだ家に厳重に保管されているので、契約書の内容は気にすることもないのだと。しかも、秀雄を信用してのことなので、帰ってから若い者たちに見せるだけでいいのだと。

ここで公正証書に少しふれておこう。公正証書とは、街中で売られている市販の契約書、あるいは、ワープロで自身で作成したような、私製の契約書に対して、公証人役場で、公証人立会いの下に締結される、公の契約書を言う。両方とも法律的効果は同じであるが、契約自由の原則により、私製契約書には、お互いの債権債務等を記載する。そこは、言ってみれば何を書いても自由なのである。しかし、裁判になると、お互いが承認して署名しても、民法等の法律に反する契約条項は無効とされてしまう。公序良俗に反する内容も裁判において無効とされてしまう。一方、公正証書は、公証人が両者の要望等を聞いたうえで、契約書を作成し、法律違反や公序良俗に反する条項は、認められないので、記載を拒否される。それゆえ、訴訟になると、私製契約書と違って、条文の有効性や無効性を議論する必要もなく、即座に、「強制執行認諾約款」に基づき、強制執行できるのである。つまり、公正証書に記載されている条文はすべて正しく、例えば家賃を数か月支払わない場合は、すぐ資産を差し押さえのため強制執行できる。代理人制度もよく利用されている。文中にもあった通り、本人の代理人に対する公正証書用の委任状(実印押印)と、本人の印鑑証明書1通、そして、原則は、代理人の印鑑証明と実印があればどこの公証人役場でも公証人が対応してくれる。おそらく、文中の例でいうと、秀雄と公証人は何度か公正証書締結で、面識があったと思われる。この場合は、代理人である秀雄の印鑑証明書は不要で、認印と運転免許証があれば代理人に成りすましできたのだ。相手側は、藤田商事代表取締役として、会社謄本、印鑑証明書、本人確認書があれば公証人として応じざるを得ない。

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