相続税の重圧 焦る大地主が標的に1

神奈川県近郊の中核都市H市は、江戸時代東海道五十三次の宿場町として栄え、明治20年には東海道線が開通されると、駅が設けられ、その駅を中心として栄えてきた。昭和57年ころ、人口は21万人あった。H市は、高い生産力を持った工業と農・漁業、そして商業がバランスよく調和している。第二次世界大戦で一帯は焦土と化したが、1954年(昭和29年)から1957年(昭和32年)にかけて、周辺の1町7村が合併し、現在の市域になった。また、東京から1時間、60kmの距離で、東京、横浜、藤沢のベッドタウンとして、住宅地も発展してきていた。

H市の郊外は、豊かな田園が広がり、のどかな雰囲気を醸しだいていた。

H市はほとんどが平らな土地で、大地主も多かった。その中でも井田家は、有名な大地主で、あまりにも所有地が広大過ぎて、自己だけでは耕作できないので、多くの農家に土地を貸し出していた。井田家は、それでも、コメを中心に、さつまいも・キュウリなどの野菜、なでしこ等の花を家族で手分けして作っていた。

昭和57年の暮れ、いつもの通り、井田昭子は、畑で野菜の世話をしていた。60歳の還暦を迎えようとしている昭子は、最近では、腰をかがめるのもいささか面倒に感じる日も多くなった。その年の春、長年連れ添った主人を亡くし、莫大な相続税が課されようとしていた。昭子には娘が二人いた。かなことよしこと言った。二人とも結婚している。かなこは、地元の市役所に勤めている主人明夫と、二人の子供をもうけている。よしこは、3年ほど前に、横浜で管工事会社を経営している木山と結婚し、かなこと同じく二人の娘を授かっている。税理士桐島を交えた家族会議を開き、自己資金だけでは賄えない相続税の不足分を、土地を売却して補うということを決定していた。昭子は、農作業の合間を見つけて、地元の不動産業者を回って、いくらくらいで売れるか尋ねまわった。坪当たり20万円が最高額で、坪15万円くらいではないかという業者もいた。多くは20万円くらいという査定だった。もっとも当時は、宅建業法が平成よりかなり緩く、査定と言っても、勘が頼りだけの口頭の、見積もりのようなものだった。しかし、当時の建設省は、宅建業法をますます厳しくしていく方針だったようで、その年に、いわゆる媒介契約制度を新たに定めた。つまり、細部にわたって取り決めた委任状の意味合いの強い、仲介契約制度だった。地価が高騰し、業者と消費者との争いが絶えないので、手数料の支払い時期、支払額、不成立時の手数料不要、最大契約期間3か月等を、消費者に分かりやすく、条文を記載したもので、標準媒介契約約款という。昭子はこのことを全く知らなかったし、相談を受けた不動産業者も当初は面倒くさくて、あまり積極的でなかった。また、大地主の昭子は、名前を言えばどの不動産業者にも知られており、出来立ての法律を強要して昭子に嫌われるのを恐れて媒介契約制度のことは口にしなかった。大体の相場をつかんだ昭子家族だが、相続税を全額支払うためには、300坪の土地を坪25万円で売らなければならなかった。それで、相場を無視して、坪25万円で買い手を見つけてほしいと、各不動産業者に伝えた。坪20万円に対して25%増であった。専門用語で、一般媒介契約の口頭版である。神奈川県と言っても、都内23区や横浜のような大都市であれば、25%相場より高く売りに出しても、店舗等に転用が効くので買い手は付く可能性が高い。しかし、田園地帯で住宅地である昭子の所有地は、相場以上の値段ではなかなか買い手がつかなかった。各業者も、売値が高すぎて仲介する気も起きず、知り合いの建売業者に声をかける程度で、積極的でなかった。そうこうしているうちに、師走となり、昭子家族も焦り始めていた。相続税の納期限まであと2か月ほどであった。

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