相続税の重圧 焦る大地主が標的に8

翌日になっても相変わらず寒い初冬だった。朝9時ちょうどを待ってたかのように、秀雄から電話があった。

「おばちゃん、急だけど、これから11時に契約をしたいって、買主が言い出して、おばちゃん駅前まで行ける?」思ってもいなかった急展開に昭子は驚いた。

「秀ちゃん、今日とは思ってもいなかったよ。早くても明日だろうと思っていたのよ。かなこは今朝早く小田原へ行ってしまっているのよ。私ひとりじゃあ、心細いからね。弱ったね。あちらさんはもうこっちへ向かってしまっているんだよね。」

秀雄は懇願するように、すぐ迎えに行くから支度をしておいてほしいと言った。昭和57年は、まだ携帯電話の姿、形もない時代であった。折角の高値で買ってくれる取引ゆえ、昭子はなんとかしなければならないと、一家の長としての自覚からか、腹を決めていた。

「わかった。支度をしておくよ。10時過ぎに迎えに来てよ。お願いだよ。印鑑証明書1通と実印だけでいいんだよね。」それだけ最後に言って昭子は電話を切った。

取引の詳細を事前に詰めるって言っていたけど、もう間に合わない。一昨日、横浜の婿の正雄も言っていたけど、売るほうは手付金をもらうだけだっていうことだし、代金の総額をチェックしておけばそれで済む。それに、秀ちゃんが間に入ってくれていることだし、こちらが不利になるようなことはしないだろう。いい話なんだから腹を決めるしかない、と思い、同時に体は鏡台のほうへ歩みだしていた。

10時を少し回って秀雄が敷地の外の門の前に到着し、クラクションを鳴らした。昭子は待ちかねていたように、門へ向かって歩いて行った。手には、黒いハンドバックと、印鑑証明1通と実印を入れている小さなセカンドバックを持っていた。

車に乗り込み、秀雄に礼を言った。

「秀ちゃん、いろいろありがとうね。今朝は急な話でびっくりしたけど、私も腹を決めたよ。よろしく頼むね。」

「こちらこそ、よろしくお願いします。あっという間に今日まで来たけど、取引が決まるときってこういうもんだよね。今日は俺に任せといてください。絶対うまくいきますから。」しかし、バックミラー越しに映る秀雄の顔色があまりよくないことに昭子はすぐに気が付いた。

「どうしたの秀ちゃん。顔色があまりよくないね。風でもひいているの?」

「いやあ、昨日ほとんど寝られなかったんですよ。食欲もなくて、けど腹は減っていないんですよ。久しぶりの大きな取引なので、たぶん興奮しているんだと思いますよ。」昭子はそんなもんかねと、一人合点していた。

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